②そうだ舞台の話を。
昨日のつづき。楽屋の話。
楽屋デビューした記憶が6歳くらいの時にある。
(申し遅れましたが秋田県秋田市で日本舞踊の指導者をしておりまして、実母も同業です。
花柳登代仲日本舞踊稽古所というところで(家ですが)代表をしております。)
母が舞台に立つというので連れて行かれたのだろう。
その時、何を踊ったか(母が)鮮明に覚えているのに。
連れて行かれた経緯などは、なんの記憶にも残っていない。
楽屋というもので過ごしたことのある方は、どれくらい居るものなんだろう。
その6歳の古い記憶から現在まで、まず確実に年に1度以上は楽屋入りを経験してきた。
昨年のコロナ禍でステージパフォーマンスが全滅した、というのは前例がないし。
たとえば妊婦であっても4ヶ月で舞台に立っていたし(いま思えば危険極まりない)、
産後その年のうちに母の主宰の会があったりで。
行事があれば楽屋に入り、そこで踊る時間の数倍を過ごしてきた。
というわけで楽屋は自分にとっては、あまりにも身近な存在であるわけで。
その楽屋の過ごし方というのも、なかなかに興味深く人それぞれだと思う。
話を戻して6歳の自分は、その頃は「ハイかイイエしか言わない子かと」思っていたなどと。
他者に表されるくらい大人しい子だったので、
ちょうど小学校にも入学したし楽屋デビューさせても大丈夫だろうと。
ステージママをしていた母の親な人(祖母ですが)が判断したのだ、と思う。
とはいえ、そこは6歳の子ども。
初めての楽屋、独特の雰囲気。
白粉の香り漂う異空間、机の上にはお菓子などが(差し入れ)乗せられていたりして。
何となく、ワクワクし興奮していたんじゃないだろうか。
舞台人として楽屋入りした母であっても、
その頃すでに母から日本舞踊を習っていた弟子のわたしだったとしても。
そんな觀念、子どものわたしが持つわけもなく。
母は母で、あまり一緒にお出掛けするようなこともなかったから。
うれしかったのかもね、あるいは机の上のお菓子に夢中だったのか。
机とソファーは奥に置かれていて、ズイズイそこに進んでいって。
母に向かって、ペチャペチャと話しかけながら。
お菓子に勝手に手を・・・
伸ばしたかもしれないし伸ばさなかったかもしれない。
とにかく、そのあたりで母の先輩に当たる先生が物凄い剣幕で。
「このクソガキ!黙れ!!出てけ!!!」
みたいなことを、むちゃくちゃ品良く仰ったような気がする。
楽屋が一瞬でフリーズしたことは、いうまでもない。
それでなくとも本番前で、それぞれがピリついている時に。
子どものしたこと、といって寛容にしてくれる大人は少数。
誰より監督責任を問われたような母、更に祖母がわたしも泣くまで叱った(はず)。
その先輩は業界で名の知れた立場と知識と存在感のある先生で、
6歳のわたしにこう言い放った。
「お前みたいなのは入口近くの隅で下足を直していろ」
という内容を冷たく丁寧に言われた(これだけは覚えている)
そこから、しばしの間。
わたしが楽屋で別の役に立つようになるまで長い間、
教えを守り忘れず常に入口近くの隅(畳敷の楽屋でも、ここは板張り)に正座し。
入る人、出る人の履物を履きやすいように直すことをし続けた。
自分が舞台に立たせてもらうようになってからも、できる限り空いている時間はそれをした。
そうして楽屋で居場所を確保して、やり取りのあれこれを見ていくうちに。
人間関係のようなものから。
実践的に、こういう時にこういう物が必要になるとか。
着付の助手をするには、こうして紐を渡せばいいとか。
先生方やスタッフさんの、お名前など。
ありとあらゆることを、そこから学んだ。
先に叱咤された先輩先生は晩年、最もわたしを可愛がり信頼してくださっていたので。
思えば、あれは愛の鞭だったのだろう。
楽屋に入ると、いつもその先生と。
あの時のことを思い出す。
1/24(日)に行われたイベントの楽屋での話を書こうと昨日からしていて、
そういえばと楽屋デビューの思い出話を書いていたら。
すっかりボリュームたっぷりになってしまったので。
肝となる【楽屋でのお白洲ごっこ】の話は、またつづく(早く書きなさいよ)